人の真価は隠せない
2013/05/03 Fri. 15:50:02 edit
表に現れるんだろうな〜、って最近思います。
ネガティブ、というか『イレギュラー』って
言葉を使った方が正確かもしれませんね。
いわゆる『想定外』が起こったときの反応を観れば、
その人がどういう意識のステージに生きて
いるのかが、大体わかります。
『想定外』が起きたとき、まず最初に、
どんなステージの人であっても避けられない、
刺激に対する純粋な反応があります。
熱いものに触って『熱っ!』ってなったり
するのと同じで、予想外のことに対しては、
刺激に対する準備ができてないので、まあ、
要は『びっくり』してしまうワケですね。
これはどんな人でも変わりません。
ブッダもイエスもガンジーもマザー・テレサも、
『わっ!』とおどかされたらフツーにびっくりするんです。
ですが、その後、心の中に生まれるもの、
そして、それらを反映させて、実際にどういう
アウトプットをするのか、という部分は、
意識のステージによって大きく変わってきます。
ステージがまだ上がり切ってない多くの人たちは、
『想定外』に出会ったときに、それに対して
ネガティブな意味づけをしてしまいます。
心の中に生まれた『恐れ』に負けてしまうんです。
『恐れ』とは、カンタンに言えば
『未知』に対する『不安』の感情です。
生命の本能には、いのちを存続させるために、
『安心・安全』を求める欲求がプログラムされています。
想定外のことに出くわすと、それによって何が起こって、
自分がどうなるのか予測できなくなり、『安心・安全』
が脅かされた、と判断してしまうワケですね。
具体例で話を進めましょう。
日常の中で、自分の意に沿わない人に出会ったとき、
和を乱すような行動をとる人、イレギュラーな言動をする人、
ルール(世間のルール、自分の中のルール)を守らない人、
自分の価値観や信念の『外』にいるように観える人たち
を見たとき、相手の言動やその背景にあるものが
理解できないため、人はそこにいらだちや不安を覚えます。
これが、『想定外』との出会いから生まれる
『恐れ』の反応です。
たいてい、なんとか理解しようと試みはするのですが、
意識のステージが追いつかない場合、そこで、
『理解しようとする』ことを諦めてしまいます。
このとき、外に出る反応は、
エネルギーの大きな人であれば、
他者に対する攻撃性・自己正当化
そこまで大きくない場合は、
諦め、無関心化
エネルギーの低い人なら、
消沈、自己否定、自己卑下
といったものになります。
もっと単純に言えば、
怒ったり、諦めたり、ヘコんだりするワケですね。
どの反応も、『この人の考えることはわからない』
と、『理解』を諦めてしまったときに起こるものです。
これは、傍目には、エゴの壁がつくられて、
他人を拒絶し、相手を突き放すような反応に観えます。
でも、実は、エゴの壁ができるのは、
他人の理解を諦め、他者を拒絶したときではなく、
『自分自身を見捨てたとき』だったりします。
もう少し言葉を補うと、
相手のことを理解できる未来の自分、
理解してあげられるという自分の可能性、
他者、自分と違うものを受け容れられる
自分自身の器、潜在力(ポテンシャル)を、
自分自身で諦め、見捨ててしまったときに、
自分と世界(他者)とを隔てる、『エゴの壁』
がつくられてしまう、ということです。
僕のオーディオセミナーでは、
一番最初にすべき、自分自身との約束、
という話が出てきますが、その約束こそが、実は、
『エゴの壁』ができるのを防ぐはたらきをするんです。
この『エゴの壁』を観察すると、その人のいる
意識のステージがよくわかります。
普段いくら立派なことを言っていても、
『想定外』のことが起こったときに、
いともカンタンに化けの皮がはがれちゃうんです。
平時であれば、マインドを駆使すれば、いくらでも
立派なこと、人格者ぶったことは言えますからね。
反対に、『想定外』が起こったときに、
見事なアウトプットができて、株を上げる人もいますね。
ステージの高い人が、他者に対して寛容なのは、
それだけ、人の可能性を信じられるということ、
そして、信じるための器が盤石にできているということ、
他者が、そして世界がどうあっても自分自身を
揺るぎなく信じている、という証拠なんです。
逆に、
攻撃性・自己正当化・無関心・消沈・
自己否定・自己卑下
といったパラダイムに囚われがちな人は、
自分のステージを上げるために、
『自分磨き』『自己成長』に集中するのが一番です。
他人や世界の在り方に、勝手に違和感を感じて、
(はみ出しているのは自分の方なのに)
悶々として日々を過ごすよりも、よっぽど
健全だし、心もラクになるはずです。
自分のステージが上がれば、自然に
他人や世界の在り方なんて気にならなく
なっていくものですからね。
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批判と指摘の違いとは?
2012/09/19 Wed. 09:41:35 edit
この場で回答をシェアしようと思います。
頂いたメールはこちらです。
〜以下引用〜
サトリさん
いつもメルマガをありがとうございます。
先日「引き寄せの法則の真実」を
購入させていただいた中村と申します。
わかるような気がするけど難しい。
時にはなぜか心苦しくなることもあったり。
そんな、ある意味で悪戦苦闘しながら少しずつ読んでいます☆
今日はメルマガを読んでの質問です。
いつもメルマガの最後に、お気軽にご連絡を
と書いているので、送ってみました。
13日のメルマガ、『批判=自己否定』についてです。
ブログ記事にも飛んで読ませていただきました。
(このメルマガはメールコーチングの方ではなく、
『【まぐまぐ版】悟りの書』の方です。
元記事はこちらです。
http://sanoukei.blog.fc2.com/blog-entry-241.html)
お聞きしたいのは 、どこまでが、
あるいはどういったものが「批判」なのか、です。
例えば改善点の指摘、オリジナリティ主張のため
に既存のものを前提として置くこと。
あるいは、自分の意見の主張さえも、その反対側の
意見を持っている人から見ると否定に捉えられると思います。
それは相手の捉え方次第ではありますが、その可能性を
(単なる空想・想像だとしても)把握していると、
その人を思い浮かべることで、「批判になるのでは?」
と考えることがたまにあります。
『指摘・アドバイス=批判・否定』
ではないでしょうが、そうなってないか?
問うてくる自分はいます。
そうした方向性に対して、たとえば質問を受けて、
そんな応え方が必要な時、主張したい時があり、
「批判になっても良いから、ここは言っておきたい!!」
と思い、相手にその旨を伝え、話すこともあります。
熱く語ってしまう性分というか主張したい背景があるため、
そこに負い目や引け目を考えてはいません。
それこそ自然の流れに沿っていないのではないか?
とか、他者の領域に断りなく入り込むとか。
それそのものも、たしかに私の主観でしかないのは、たしかにそうですが、
指摘を超えて批判になってしまってる気もします。。
ちなみに、誰かを批判することはありません。
批判になってしまったとしても、対象は「人」
ではなく「考え」「構造」「形式」といった事柄です。
が、サトリさんをはじめ、こうした記事を書いている人
の意見は「もっともだ」と私も思うのです。
批判ではなくとも、指摘やアドバイスは必要項目だと考えます。
この記事を書いているサトリさんの中での
批判や否定という世界はどのようなものですか?
お時間のある時にでも何らかの形でご回答いただければ有難いです。
よろしくお願い致します。
〜引用ここまで〜
僕の見解ですが、自己否定という意味での
『批判』というのは、シンプルに、
『その対象を許せていない』
という定義で考えてます。
言葉と解釈は別物で、同じ言葉を使っていても、
批判になる場合とならない場合があります。
また、その『解釈』は、言葉を使っている
当人の世界で創られるものなので、
周りの人から観たら『批判』に観えても、
当人の中では『自己否定』という意味での
批判ではない、ということもあります。
たとえば僕も、言葉尻だけをとらえたら、
『批判(否定)』ととれるようなこともよく発言します。
コピペやテンプレートで、アタマを使わずに
ラクに稼ごうとする人たちを揶揄したり、
信者を集めて盲目的に信仰させようとする、
スピリチュアリストたちを揶揄したりもします。
でも、僕の中では、そういう人たちの存在
そのものを『許してない』ワケではないんです。
彼らのような存在がいてくれるおかげで、
僕は僕のアイデンティティを体現できるワケですし、
彼らには、彼らを求める人たち(それが、その人たちの
顕在的な意志であるかはともかく)が存在するのです。
僕は、僕自身の解釈が創りだして自分に観せている
この世界の、いかなるものも『否定』しないことを、
意識的に、自分に言い聞かせてます。
まあ、もちろん、自我の自動反応として、
反応的に拒絶したくなる、拒絶してしまう瞬間
というのはたくさんあるんですけどね。
だからこそ、意識的に自分に言い聞かせるんです。
瞬間的に、心の中に否定や拒絶が生まれても、
それを自分の個人メディアで発信するまでに、
心の中で『許し』『受け容れ』のプロセスを
通り抜けさせるようにしてます。
たま〜に、反応的、感情的にアウトプット
しちゃうこともありますが、でも、投稿後に、
アタマを冷やして考えてみて、
『これは不適切だな』と思ったら、
その発言は削除しちゃいます。
だから、僕がブログやメルマガ、Facebookなどで
自分の言葉としてアウトプットする段階では、
批判的、否定的に観えるコメントも、基本的には、
すべて『指摘』とか、自分の意見を際立たせるための
『対比』としてアウトプットしてる、ってことです。
ユダヤ人の格言に、
『自分の言葉を、自分が渡る橋だと思いなさい。
しっかりとした橋でなければ、貴方は渡らないでしょうから』
ってのがありますが、これは数年前に目にして以来、
僕の中でかなりの頻度でリフレインしてる言葉です。
ちょっと論点がずれちゃってる気もしますが、
まあとにかく、相手が『指摘』ととるのか、
『批判』ととるのかを、こちらがコントロール
することは不可能だと、僕は割り切ってます。
言葉を放つ前に、どんなに計算して考え尽くしても、
相手の受け取り方をコントロールはできません。
なので、相手がどう受けとめても受け容れるため、
自分自身の言葉に責任を持つ、ってことを、
常日頃から実践していくしかないのかな、
って思います。
究極的に言えば、他人から観て、どんなに
ネガティブで批判的な言葉を使おうと、
自分の心の中でそれを『許し』『受け容れ』ていれば、
それは批判(自己否定)ではない、ってことです。
まあただ、言葉とイメージは自然に結びついているし、
心の中の『許し』『受け容れ』の度合いが
高まると、他者との分離もなくなるので、
わざわざ他人を不快にさせるような言葉を
選んで、それをアウトプットすることも
なくなるってのが、現実的な見解ですね。
この辺り、理屈がどうこうというより、
感覚的な部分も多いのですが、
これもやっぱり、自分自身の器の大きさ、
自分自身や他人、世界に対する、
『許し』『受け容れ』の度合い、
そして、全体的なバランス感覚が
ものをいうって話だと思います。
自分の器を広げるためには、
何ごとも拒絶せず、壁をつくらず受け容れ、
なんでもやってみて、経験知を増やしていく、
ただそれだけですね。
参考になれば幸いです^ー^
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精神疾患とスピリチュアル
2012/07/13 Fri. 20:10:00 edit
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今日は、読者の方からメッセージで受けた
ご質問への回答をシェアすることにします。
頂いたご質問です。
~以下引用~
サトリさんにお聞きしたいことがあります。
サトリさんの語るスピリチュアルは基本的に健常人が
人生をよりよく生きるためのものかと思いますが、
いわゆる精神疾患(器質的なものは省いて)の
メカニズムというか成り立ち、認知の歪みと
いうものはどのようにお考えですか。
私は不安神経症について考えていて、
①認知の歪み(←認知行動療法)
②扁頭体の暴走(←薬物療法)
認知の歪みにアプローチすることで
②もいくらか回路の書き換えはできるようです。
森田療法などでは、神経症者は健常人と
隔することはなく、たとえばパニック障害は
単に“生への欲求”が強すぎるとしています。
生きたいという気持ちが強すぎるために
死にたくないという気持ちが強すぎて、
死んでしまったらどうしようと異常にパニックになります。
だとすると、何かを達成したい(欲求)は
強すぎてはいけないということになりますよね。
また、森田療法では、“目的本位”と言っています。
失敗したらどうしよう→成功したい!
にシフトすることと言っています。
これは引き寄せの法則と通ずるものがありますよね。
これは私の中で両立できない考えです。
“よくありたい”と思わなければ良くならない。
でも思いすぎて空回り。どうすればいいのでしょうか。
わたしの考えでは、また経験上、
不安神経症者のように自己統制力を極端に失うのは
自分を苛めてきたことからくると思っています。
自分を大事にせず、他人を崇拝してきて、それで
自分の体(自分)が自分の言うことを聞いてくれるわけがない。
感覚的にこう思っています。
言いたいことがまとまりませんが、サトリさんが、
現代の大きな問題であるメンタル疾患について
わかりやすい言葉で解説していただけるとありがたいです
(既出でしたらすみません)。
~引用終わり~
で、僕の回答がこちらです。
~以下引用~
おはようございます^ー^
僕は大学などアカデミックな場で正式に
心理学や精神疾患について学んではいないので、
専門的な知識や用語を知っているワケではないのですが、
人の心というものに関しては、本質に近い
理解を得られていると、自分では思ってます。
僕の考えでは、『欲求』というのにも2種類あります。
それは、苦痛(恐れ)の回避から来る欲求と、
快楽(希望や憧れ)の追求から来る欲求です。
近日中に一般販売するオーディオセミナーでも
話しているのですが、僕の中では、『恐れ』との
向き合い方こそが、人生の質を大きく変えるものだと
考えているんです。
普通、人の心の中に、『恐れ』と『希望・憧れ』が
同居しているとき、その人の意識のフォーカス(関心)
は、強制的に『恐れ』の方に向いてしまいます。
これは、生命の生存本能、安心安全欲求という、
一番土台となる欲求に根ざしたものだから、
人間である限り、誰も避けることのできない構造です。
つまり、人は、人生の中で創られた自分自身の
『恐れ』を克服する術を知らないと、『恐れ』ベース
の欲求に支配されて行動することが多くなる、
ということなんです。
精神疾患を持つ人と健常者の間には明確な境界はありません。
境界があるとしたら、それは人の心の中の
『思い込み』が創りだしているものなんです。
欲求を、ワクワクするような目標を持たなければならない、
とか、欲求を持つことが苦しみにつながるので、そんなものは
捨ててしまうべきだ、という両極の考えは、問題の本質、
『恐れ』というものへの視点が抜けてるので誤りだと思ってます。
『恐れ』というのは、その人の人生の中から生み出される、
その人のアイデンティティ、パーソナリティそのものです。
それと向き合うことこそ、人生の新しいステージに
立つために必要なことなんです。
これは、健常者とラベリングされる人にしても、
精神疾患とラベリングされる人にしても同じですね。
現代社会に蔓延しているのは、大きな社会不安、
これは、社会の構造、教育制度、マスコミの在り方、
などなどいろいろな要因からきてます。
これが人々の『恐れ』を助長して、現代の
メンタル疾患の増大につながってるんでしょうね。
ただ、これもある意味、人の意識の進化のステージ
では必要なプロセスだとも言えます。
きっかけもなしに、『恐れ』と向き合える人
なんていないわけですからね。
以上、参考になれば幸いです^ー^
~引用終わり~
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鏡の法則のワナ
2012/06/27 Wed. 09:31:00 edit
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サポート用Facebookグループで、今朝、
交流している中で起こった気づきをシェアします。
余談ですが、最近、Facebookグループでの
やり取りが非常にアツいですね。
僕自身が運営している【行動する自分を創る】って
グループと、和佐さん久米本さんの勉強会、
The AnomalyのFacebookグループでの交流からは、
毎日何かしらの気づきをたくさん頂いてます^ー^
自分の現実の中の人間関係を読み解くときに、
『鏡の法則』や『自分の現実はすべて自分が創っている』
という考えに、『エゴの視点』で囚われてしまうと、
大きなワナにハマってしまいます。
昔の僕を含め、スピリチュアルを少しかじった
人の多くがハマってしまうワナです。
それは、
『他人は自分自身』
ということをエゴの視点で理解しようとすることです。
たとえば、自分の身の回りにいる人、自分と近しい人が
自分にとって気に入らない行動をとっているとします。
挨拶をしたのに無視される、とか、顔を合わせると、
いつもイヤなことを言われたり、ダメだしされる、
とかです。
スピリチュアルを少しでもかじっていると、
ストレートな被害者意識からは逃れて、
相手や環境ではなく、自分に原因がある、
という考えができるようになります。
ただ、この先が問題で、スピリチュアルを
中途半端にしか理解していないと、相手との
人間関係を『自分の中だけ』で変えようとするのです。
つまり、自分の心の中を変えるだけで相手も変わる、
ということを額面通りに受け取ってしまって、自分の
内面にばかりフォーカスを向けてしまうということです。
さっきの例で言えば、
『自分がこんなにイヤな思いをするのは、
自分が引き寄せちゃってるんだ』
とか、
『鏡の法則、だから、自分も誰かにああいうことを
やっていたり、過去にやったことがあるんだ』
って具合に、自分にばかり矢印を向けます。
その時点で、自分だけを見て、
その相手のことを見てないんです。
本当のところは、自分の心の中を変えるためには、
他人との会話も含め、何かしらの『行動』が必要になるのです。
鏡ってのは、自分の姿を映し見て、
『自分の居住まいを正す』ために使うものです。
鏡に映る自分の姿を見て、反省したりヘコんだり
してるだけで、何かが変わるワケじゃないんです。
ですが、昔の僕みたいな中途半端スピリチュアリストは、
『行動』なしに自分の心を変えることができる、
と勘違いしてしまいます。
相手が自分の意に沿わない行動をとっているとき、
自分の感じ方だけにフォーカスを向けて、その感じ方を
変えよう、とスピリチュアルな知識をフル動員させて、
ひたすら自分自身と向き合うのです。
さて、これを俯瞰してみればどう見えるでしょう??
この人は、目の前にいる『相手』のことを
しっかり見ようとせず、『自分(自我)』だけに
フォーカスを向け続けることで、自分の殻を
固くして閉じこもってしまっているのです。
これが、無意識のうちにエゴを強化している、
という状態にあたります。
僕自身も、思いっきり心当たりがあります。。。
何が問題かと言うと、この考え方は、
『他人の存在を自分のエゴの創造物と見なしている』
ってことなんです。
すべては一つ、他人は自分、というワンネスの概念を、
表面的な理解で受け取ると、自我(エゴ)の視点のまま、
それを理解しようとしてしまいます。
そうなると、自分は自分(エゴ)、他人の姿の中にも
自分のエゴを映し見て、延々とマインドの一人遊びの
中に没頭してしまうことになるのです。
それを他人の視点で観ればどう見えるでしょう?
自分の殻の中に閉じこもって、他人を理解しようとしない、
ものすごく心の距離が遠い人に映るはずです。
自分のことだけ大好きで、他人に目を向けようとしない、
ものすごく自己中なイヤな人、ダメな人に見えるでしょう。
すべては自分、の『自分』とは、エゴを超えた存在です。
エゴはエゴ、自分のエゴと他人のエゴは
あくまで対等、同列の存在でしかないのです。
自分の人生にとって自分のエゴが大切なものなのと同じで、
他人にとって、その人のエゴもまた、大切なものなのです。
人間関係において何より大切なのは、
『相手を理解すること』です。
相手のことを知れば知るほど、お互いのエゴの
距離が縮まり、共有するものが増えていくのです。
他人が自分の意に沿わない行動をとっているとき、
多くの場合、人は、その相手の行動によって生まれた、
自分の心の中の『悩み』にフォーカスを向けます。
その『悩み』『恐れ』『不快』の感情を癒そうとして、
自分の心の中だけで、感じ方を変えようとしてみたり、
考え方、とらえ方を変えようとして
マインドのループにハマります。
これがマインドの一人遊び、ということです。
エゴはこの、マインドの一人遊びが大好物なので、
これを続けていると、自分のエゴは丸々と太っていきます。
大切なのは『相手の理解』。
他人があなたの意に沿わない行動をとっていても、
それはあなたの色メガネを通した視点であって、
相手にとっては、その人なりの人生を歩んできて
できあがった価値観、ものの見方、考え方からくる、
『必然』の行動だということです。
他人を見るとき、現在の姿だけを、外から見て、
その人の行動の善悪を判断することはできないのです。
その人がどういう『過去』を経験してきて、
また、どういう『未来』のビジョンをもっているのか、
それを知ることで初めて、その人が『現在』、
どういう世界を観ているのかが見えてくるのです。
それが『相手の心を理解する』ことであり、
『相手の心、感情に寄り添う』ということです。
具体的に言えば、なんで相手が自分に対してそういう
接し方をするのかを理解しようと努力するんです。
他の人への接し方と、自分への接し方、
どういう点で違うのか?
そして、自分の相手への接し方はどうなのか?
相手の人は、どういう人と接しているとき、
楽しそうなのか?
そういう人たちと自分と、何が違うのか??
相手と接するとき、相手が気分良くなるには、
自分はどういう接し方をするべきなのか??
相手は、自分がなにをすれば喜んでくれるのか??
ここがポイントですが、相手の感情を理解しようと
意識を向けることで、自分の心の中の『不快』が
癒されていくということです。
『自分の悩み』にフォーカスを向けるのではなく、
『相手の理解』に意識を向けるのです。
一言でまとめると、
『相手を理解することを通して、自分を癒す』
ということです。
具体的には何をすればいいか?
自分がかけている色メガネに気づいてそれを外し、
相手との会話を楽しむことに集中する、ということです。
求めるゴールは、自分の心を納得させることではなく、
相手との関係を良くすること、のはずです。
なら、相手と仲良くなるための
会話をすればいい、ということです。
一人で悶々と考え込むことからは何も生み出せません。
ですが、エゴはそれが大好きでもあるのです。
大切なのは、この世界では、自分の殻を破り、
会話を通して他人と交流すること、
行動を通して世界と交流することでしか
『変化』を起こすことはできない、
ということです。
マインドの一人遊び、陥らないように気をつけたいですネ。
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感情とどう向き合うべきか その2
2012/06/02 Sat. 17:45:00 edit
秦由佳さんとの動画対談、その3~その5です。
その1~その2はこちらの記事よりどうぞ。
⇒ 感情とどう向き合うべきか その1
Yuka & YoShi 動画対談Vol.1 その3
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