”いのち”という祝福
2012/04/17 Tue. 09:25:00 edit
ひとつの生命体の中で、バーチャル(仮想的)な個別の
意識をもってしまった、一つの細胞なのかもしれません。
あなたの視点から見れば、バラバラに認識されている
一つひとつの生命はすべて、すべてを包括するひとつの
生命体である、この『世界』の中の細胞であり、
世界・現実というものは、壮大な生命活動と言えるのです。
たとえば、こんな風景を思い浮かべてみましょう。
暖かい日差しの中、原っぱに数匹の蝶が舞っています。
その下を、犬が喜びながら駆け回っています。
この風景を見て、日差しや草、蝶や犬といったものを、
バラバラに個別の存在として認識するのはあなたの視点、
人間の意識だけだと言えます。
自我の習性(基本プログラム)は、ものごとを
分離して認識することであり、物心ついて以来、
自我というものを中心にものごとを認識し、
考えてきたあなたには、なかなか気づけません。
ですが、蝶も犬も、自らが世界から分離した
存在だとは認識しておらず、世界というひとつの
生命体を構成する細胞の一つとして、ただ、
自然と調和してその機能を果たしているのです。
つまり、その風景自体がひとつの生命活動なのです。
これは、人間社会の観念に、教育・洗脳されて
生きてきたあなたには、素直に受け容れがたい
世界観なのかもしれません。
ですが、体内の細胞が、あなたという一つの
生命体の中で『生かされている』のと同じように、
あなた自身も、世界というひとつの生命体の中で
”いのち”を与えられ、『生かされている』のです。
あなたの現実、あなたの人生の中で、
あなたが自分だと思い込んでいる存在、
つまり、あなたの自我によって成されて
いることは、一体どのくらいあるでしょう??
あなたには、自分の意志で心臓の鼓動を
止めることはできますか?
呼吸をずっと止め続けたり、空気を吸い込んで、
その中から酸素を取り入れるのをやめることは?
脈を止めてみたり、内臓のはたらきや、体内の
生命活動を、自我の意志で止めることはできるでしょうか?
あなたは、明らかに『生きている』のではなく、
『生かされている』のです。
あなたには、自分の意志で自分の身体の
生命活動を止めることはできません。
眠りについた後、翌朝目覚めるということを
止めることもできません。
あなたの”いのち”が成長していくことを
止めることはできないのです。
あなたが、自分の意志で行っていると、
思い込んでいることについても考えてみましょう。
自分自身の手を見つめながら、指を
握ったり開いたりしながら感じてみてください。
それをやっているのは、本当に自我の意志ですか??
何かもっと大きな存在、あなたという存在の本質とも
いうべきものが、それをさせているという考えを、
あなたは完全に否定することはできますか?
『意識の目覚め』が進んでくると、自分の意志、
思考、感情、感覚すらも、すべてが『与えられている』
ということに気づきはじめます。
空腹になったとき、あなたには、
『何かを食べよう』という思考を止められません。
痛みを感じたとき、それから逃れようという
意志、思考も同様です。
あなたの人生は、自我を超えた『本当のあなた』
によって、すべて与えられ、『祝福』されているのです。
何の苦労もなく、生命が維持されること、
”いのち”が成長すること。
この世界、現実と調和したときには、
至福の感情が流れ込み、分離の意識が増すと、
不快や恐れ、苦しみという感情のサインが
あなたの元に訪れること。
あなたは世界と調和して、自らの機能(使命)を
果たすために『導かれている』のです。
ワンネス、ひとつである世界を理解するために、
難しいプロセスは必要ありません。
ただ、あなたが”いのち”というものを実感すること、
そして、それが『祝福』としか表現できないものであること、
そのことに気づけば、あなたの意識は感謝と喜び、
そういう至福の感情で満たされるはずです。
それを理解した後には、人間として、
自分の”いのち”をどう使っていくのか、
その『選択の自由』の喜びがあなたを待っています。
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コメント
1. 祝福の日の朝に。
このところ
「理解しよう」ということを 辞めました。
「どうして?」という問いばかりが私の人生の始まりで、混乱に観える「いま」にOKを出せずにいたんですね。
でも、それを辞めて、「いま」にOKを出してみると、初めてわかりました。全てのことは宇宙の秩序の中で動いているんですよね。
それは物事を一つの視点から、断片的に見てもわからないし、マインドのジャッジでは測れない答えですが。
やっといまここと重なり、それは動き続けて、お互いに完璧に秩序の中で世界を創り上げていることがわかります。
ありがとうございます。
2. Re:祝福の日の朝に。
>makiさん
コメントどうもありがとうございます^ー^
ものごとって何でも、部分だけを取り出して、
分離して解釈・評価してもしょうがないんですよね。
すべてつながっていて、関連しあってますから。
そして、マインドで理解することも、
必ずしも必要ではないんですよね。
というか、マインドの理解自体、自分の中で感覚的
に理解できたものが翻訳・顕在化されたものですからね。
理解しようとせず、受け容れてしまえば、
必要なときに必要な理解はやってくる、ってことですね^ー^
3. 無題
とてもよく伝わります
よみがえります(^。^)
愛だのなんだのからは
1番遠いと思っていた自分でしたが
祝福としか表現できない
ていうか
そんな言葉たちが降ってきますね
理論で最後までいけますが
最終的に愛は
感じることしかできません
とりとめなくなりました
いつも楽しく拝見しています
4. Re:無題
>凜さん
コメントどうもありがとうございます^ー^
昨日書き上げた電子書籍【ユダヤとキリスト教に学ぶ成功哲学】
の中のユダヤ人の格言にも、
『もっとも大切なのは研究ではなく実行である』
というのがあったのを思い出しました。
本当の理解とは理屈ではなく実践、それも
無意識の実践ということなんでしょうね^ー^
5. 無題
私の意思は与えられているんですね。
なかなかうまくつかえないのですけど(・_・;)
風景は文理されたものではなく、究極の自我の生命活動なんですね!
6. Re:無題
>ほのかさん
コメントどうもありがとうございます^ー^
最初は、なかなか感覚が持てないかもしれませんが、
まず『知っておく』のも大事なことです♪
知識があれば、意図的に視点を変えることができる
わけで、それによって、気づきもある程度意図的に
起こしていくことができるんです^ー^
7. 無題
Yoshiさん、こんにちは!
~『生きている』ではなくて『生かされている』~
今までピンとこなかった言葉なのですが、とてもわかりやすく具体的に解説されていたので、
少しずつ理解できてきたように思います。
それにしても、最近、ブログを読んで、Yoshiさんの『意識の目覚め』が、前にも増してどんどん進んできていると思ったのは、私だけでしょうか?
8. 無題
生かされなければ、生きれらない命‥
なんて惨め(´・ω・`)
そんなの生きてるって言えるのですか?
私が欲しかった本当の自由は、大いなるひとつのものから独立した意思を持つ存在であること。それは人である限り叶わない。
命はただ命なだけ。そこに感謝や祝福とかの
情報をくっつけるのは人ではないんですか?
感謝をして生きることが大切なのではなく生を自分の道を精一杯生きることが還元だと思ってました。
9. Re:無題
>フィットネスインストラクター&トレーナーのめぐテイラさん
コメントどうもありがとうございます^ー^
確かに、僕自身の中でもつき抜けてきてる感があります(笑)
でも、人間的な中身はあんまり変わってなかったり
するんですよね。そういうものなんだって思ってます♪
10. Re:無題
>宇佐美ゆゆさん
コメントどうもありがとうございます^ー^
言葉のとり方の問題なんでしょうね。
ゆゆさんがそう感じてしまう背景もわかるし、
僕が伝えたいこととゆゆさんが求めてることに
本質的な違いはないってこともわかるんですが、
言葉って残念ながら、そこまで細かいニュアンスを
伝えるのには適してないというか、万能ではないんですよね。
感謝とか祝福ってのは、便宜的に言葉を使ってますが、
言葉通りのものを指してるわけでもないんです。
一つ言えるのは、独立した意思を持つことも、
自分の道を精一杯生きることも、それでいいんですよ。
ゆゆさんが考えてることは間違いじゃないので
安心してください^ー^
11. いつもとは違う
柔らかい内容でした
12. Re:いつもとは違う
>‡麗華†さん
コメントどうもありがとうございます^ー^
僕にしては、結構真っ当にスピリチュアルな
記事だったと思ってます(笑)
13. ありがとうございます
自由意思すら幻想だったことを受け入れた時、ただ至福でした。
みんな「私」というアイデンティティ、自我、人格がなくなるのが一番怖いのだと思います。エゴの死ですものね。
「すべてはひとつ」を知った上での、素晴らしい個性を持った「私」だと感じました。
その上で本来の魂を生きる「選択する自由」を楽しむ(^-^)
腑に落ちました。
ありがとうございます(^-^)/
14. Re:ありがとうございます
>火宵-kayoi-さん
コメントどうもありがとうございます^ー^
『私』が自我であるときは、アイデンティティを
失うことは恐怖そのものなんですよね。
でも、『私』の本質に気づけば、すべてのパラダイムが
大きく変わってしまうんですよね。
気づいたところから新たなスタートが切れる。
しかも、それは一度きりのことじゃなくて、
人生が続く限りのことなんですよね。
未完成だからこそ、完成に向かう楽しみ、
喜びがあるんだと思います。
そして、それは、決して完成することはない、
ということを知っていても変わらないんです^ー^
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