ジレンマの中で生きる
2011/05/16 Mon. 21:26:32 edit
人間ってつくづく不思議な存在だな、と思います。
自分のことを好きになれない(愛せない)、
自分に自信がない(信じられない)のに、
自我を手放し、新しい自分になることが
怖くてしょうがない、というのが人間です。
自分と他人、自我とそれ以外のものを
比較して、評価することによって、
いろいろな『煩悩』が生まれてきます。
自我と、その認識によって構築される世界、
それらはすべて一つ(Oneness)なので、
『比較する』という概念自体が幻想ともいえます。
以前は、仏教哲学で、『煩悩を捨てる』とか
『悟り』という言葉に対して、何か超越した、
自分みたいな俗世間の普通の人には届かない
世界、というイメージを持っていました。
ですが、最近は、ブッダや
イエス・キリストのような聖人であっても、
この世界で暮らすためにもっていた
『自我』は、他の人と変わらない、
普通の人間らしいものだったんじゃないか、
と考えられるようになりました。
手塚治虫の『ブッダ』でも、
あれが事実に基づいてるかどうかはさておき、
『悟りの境地』に辿りついた後のブッダでさえ、
人間らしさや感情の動きを持った
一人の人間として描かれています。
『悟りの境地』に辿りついたら何が変わるのか?
単純に、あるがまま、自然なままに
一人の人間として生きていくようになる、
ということではないでしょうか。
こういうえらそうなことをブログに書きながらも、
僕自身も昨晩、買い物に立ち寄ったコンビニ
から出た時に、歩道をありえないスピードで
走ってきた自転車に轢かれそうになって、
ちょっとムッとしてたりします。
以前の自分との違いは、
自転車に乗っていた人に対して怒り続けたり、
『こんな程度でムッとするなんて、
自分はまだまだだな・・・』
とか思わなくなったことですね。
『ムッとした自分』を認められるようになったのです。
人間として当たり前のことなんですよね。
風が吹けば、木の枝が揺れるのと同じで、
何か起こったことに対して感情が動く。
それに対して、何の評価もせず、ただ感じれば、
自然にスッと消えていくのです。
感情には実体がないため、風が通り過ぎて
過去のものになれば、それによって生まれた
『揺れ』もまた過去に流れていきます。
多くの人は、風が収まったのに、
わざわざ自分の手で、木の枝をつかんで
ゆさゆさと揺らし続けてしまうのです。
最初に起きた『揺れ』は、じっと待つだけ
でもすぐに収まります。
それを『ただ感じる』というのは、
その感情に実体がないという
ことを確認することです。
実体がないと気づけば、
より早く感情から解放されます。
これは、ポジティブ・ネガティブ関係なく、
すべての感情に対して言えることです。
うれしい・楽しい・愛情・幸せ、といった
プラスの感情も、その場でただ感じて流れ行く
ままにしないと、『執着』が生まれます。
光があれば陰があるように、ポジティブがあれば、
『それがないところ』にネガティブがあるのです。
一度感じた幸せを手放したくなくて『執着』すれば、
それがなくなると不幸せになる、と『勘違い』するのです。
感情に振り回されると自分を見失ってしまいます。
ですが、感情は決して『主体』にはなり得ないのです。
あるのは、すべてを包括する
自分(自己)という存在だけです。
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コメント
1. 無題
「感情には実体がない」
「感情はただ感じていればいい」
ここ最近、自分の師からも折に触れて指導してもらっていることです。
「あ、今自分は怒っているんだ」
って自分を観ている「自分」は怒っていない。
その「自分」が主でいられるように修練していると感じています。
ですから、ブログを拝見してとても心強く思っております。
ありがとうございます。
2. Re:無題
>ワタル@練気武颯拳神戸修練会さん
コメントどうもありがとうございます^-^
奇しくも、本日夜に更新予定の記事で、
思考や感情の観察者になることについて
扱う予定にしてます。
まさにシンクロニシティですね^-^
3. ちょっと疑問が
感情を感じるだけの習慣がついてしまうと、人の感情に対しての、共感する行動が衰えるのはどう対処したらいいでしょうか。たとえば、親しい人が死んで悲しんでる人に、ひとはいずれ死ぬみたいな飄々とした感じ方をしていると、その人の身になって一緒に悲しんであげることができなくなるということはないでしょうか。わたしは妻から
普段から人の気持ちがわっかてないといって怒られます。
2012/02/16 14:03 * edit *
4. Re:ちょっと疑問が
>meiseiさん
コメントどうもありがとうございます^-^
これは、難しくも観える、というか、
多くの人にとって受け容れがたいことなんですが、
自我が調ってくると、そうではない人、
自我に振り回される人から観ると、『冷たい人』
『感情の希薄な人』と観られてしまうのは、
ある意味避けられないことなんです。
その人には観えない世界が観えている、ということは、
相手にとって『理解できない人』になるということなので。
でも、感情を感じるだけ、味わうだけ、というのは、
『気持ちがわからない』というのとは、全然
違うことなんです。
一緒になって悲しみを味わうことはしますが、
それに囚われてしまわず、その『悲しみ』を
自分の中で昇華させて、新しいエネルギーに
変える、ということなんです。
感情の扱い方がわからず、それに囚われてしまうことが
『普通の感覚』と信じ込んでいる人たちからすれば
理解されないんですが、でも、そこは真摯に、
誠実に伝えて、お互いの観ている世界を重ねる
ための努力というのは必要なのだと思います。
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