逃れるのではなく優先する
2012/08/21 Tue. 15:02:36 edit
頂いたメールへの回答をシェアすることにします。
前回メールコーチングからの抜粋記事はこちら。
自由は心の中にある
これに対して頂いたメールがこちらです。
〜以下引用〜
本日のメールと過去ブログ「破壊者であれ(2011.09.08)」を
同じタイミングで読むことになったり、数あるテーマの中でも
以前から僕が特に注目、興味を寄せている内容だったので、
金山さんに向けてこのような形での
メールをはじめて送らせていただきます。
オーディオセミナーでも「思考の枠を外す」
「抽象度を上げて考える」ということを
テーマに語られていますね。
購入以来(ほぼ毎日聴いています)、
このことについて考え、実際に実践してみたりもしました。
例えば、
「会社には9時までに行かなければならない」
「会社を休んではいけない」
「会社のルールを破ってはいけない」
といったことです。
今日のメールにも書かれている通り、これらの制約、
決まりごとは確かに実像としては存在せず、
物理的な制限ではなく、人の頭(心)の中だけに
あるものだということはよくわかります。
なので、こういったルールを守る(制限される)か
破る(解放される)かは自分次第で、
どうにでもなることもわかります。
実際に、やってみたからです。
行動に移したのは、
「会社を休む(仮病、ズル休みする)」
「朝礼に出ない」
「休憩時間を守らない」
などです。
こういったことは、実行する前(会社に休みの趣旨の連絡をする時)や
実行している最中(既に朝礼が始まっているのに出社しないでいる時)に、
強烈な抵抗と恐れが生まれます(体は震え、心も乱れます)が、
それを無理やり振り切ってやる、自分の心だけを『束縛』から
解放するだけで目的は達成できるということも理解したつもりです。
しかし、これをすると、確かにその瞬間、もしくは
ある一定の時間ルール(会社)から解放され、
自由になれたような気がしますが、後でツケが回ってきます。
それは「怒られる」「注意される」「ペナルティを受ける」といったことです。
ルールを破るという行動を起こした結果、
ルールを破るものは罰せられるという現実を受け取ります。
しかし僕はそんなことを達成したかったわけではありません。
それにそんなことは実行する前から容易に想像できることでもあります。
これは、僕が「ルールを破ってはいけないものだ」
という思いを手放せていないから、
「ルールは別に破ってもいいものだ」と心底思えていないから、
ルール違反を犯すことに心理的抵抗を完全い取り払えていないから、
自分がペナルティを受けるという結果を受け取るのだけなのでしょうか?
少し時間が遅れた、朝礼に出なかったぐらいのことが大袈裟に扱われます。
会社はそれを許しません。これは会社の中での小さな話ですが、
「犯罪を犯したものは、裁かれる」ことと同じではないかと思います。
また、ルールを破ることで、いいかげんな奴とか、変な奴、
常識がない奴といったレッテルを貼られることになります。
実際ルールを破って、注意されると、そのあと居心地も悪いですし、
良い印象を持っていない人は沢山いると思います。
それがまた自分の心を乱し、結果、心の平安や
自由とは程遠いような感覚に陥ります。
それに、会社に「休みます」といえば、確かに休めはしますが、
心がそわそわして、一日ゆったりとした気持ちにはなれません。
翌日のことを考えると憂鬱になります。
それは「休んだこと」そのものに対してではなく、
「休んだことによって叱られる」ということを
気にしているからです。わかりづらいでしょうか、、、
「休む」という行為そのものに別にいいも悪いもないと思います。
自分が休みたいと思ったから、休んだのであって、
むしろ望みどおりです。
ただ、そのことを許さないものが出てくるので、
「休むこと=悪いこと」だという図式になってしまうのだと思います。
そもそも、僕のやり方は間違っているのでしょうか?
「常識を破る」ということを額面どおりに受け取りすぎでしょうか?
最近は、やっていること自体間違っているんじゃないのか、とか
ベクトルが違うのではないか、などといろいろと考えてしまい、
結局よくわからなくなってきてしまいました。
オーディオセミナーやブログを読んで、僕がこういった行動
を実践したことが、金山さんの意図するところでなかったり、
伝えたいこととは外れていたとしたら、笑い話もいいとこですよね。
でも、そうとは感じながらも、行動に移し続ければ
(思いこみを破壊し続ければ)、
何か見えてくるものがあるのでしょうか。
(ただ、何度も実行に移す勇気はそんなにありません。
やり続ければクビになるでしょう)
もしくは「ルールを犯すことで罰を受ける」という
体験を通して、「ルールを犯すことで罰を受ける」と
いう信念を強固なものにしていくだけでしょうか。
心の自由を手に入れるのは非常に難しいですね。
自分はこれらの行動で何を得たのでしょうか。
なにかアドバイスがあればお願いします。
お忙しいと思いますので、いつでもかまいません。
または、自分と同じような体験に陥り、
同じようなことを考えている読者の方も
いらっしゃるかもしれないので、
もしも役立つようであれば、ブログなどを通じて
金山さんのご意見をみなさんにシェアして
いただければとも思います。
長文、乱文失礼しました。
最後まで読んで下さりありがとうございます。
〜引用終わり〜
貴重な体験のシェア、どうもありがとうございます^ー^
まず、素晴らしいのは、疑問に思ったこと、
知りたいことがあったとき、
それを『恐れずに実行した』ということです。
これって、大多数の人が踏み越えられない
壁を越えて行動できた、ということなので、
そこには自信をもってイイと思いますよ♪
自分を縛る、過去のパターンから抜ける
ためには、こういう『勇気』が必要なんです。
ポイントをお伝えすると、
前回メールコーチングでもちょっと書いてますが、
『自由とは束縛から解放されることじゃない』
ということなんです。
自由とは、自分の中で優先すべき『ルール』、
つまり、自分の信念という束縛をもって、
それを優先して選択する、ということなんです。
今回、思うような『満足の感情』が得られなかったのは、
会社の決まり事(ルール)という束縛から
逃れることが第一の目的になってしまってて、
それ以上に優先すべき『自分のルール』が
なかったということが原因だと言えますね。
僕も、会社員時代の最後の年には、ときおり
ズル休みをして、セミナーに出たりしてました。
そのとき、僕の心の中には、
『自分の人生にとって最善のことを優先する』
というルールがあって、そのセミナーに
出ることは、職場での仕事や、万一、
ズル休みが会社にバレて、
その収拾をつけるために謝ったり、
ごまかしたり、お小言をやり過ごしたり、
そんな諸々の事態を経験することに
なったとしても、納得できるくらいに、
僕自身の中で優先度の高い事項だったんです。
だから、僕としては、セミナーに出る、
という『自由』を行使する代わりに、
それに付随して起こるすべてのことを
きちんと受け容れる、という『責任』
を引き受けるコミットができていたんですね。
これが本当の意味での『自由』なんです。
『逃れる』、ではなく『優先する』
ってことがポイントですね。
ただ、今回のこの経験は一切ムダにはならず、
会社のルールを犯すことで、どんな罰が
待っているのか、ということをリアルに
経験することができました。
これは、実際に経験するのと、アタマの中だけで
想像してみるのとでは全然違います。
これによって、自分の意識の中の
想像力のはたらく広さは確実に
大きくなってるはずなんです。
とりあえずまとめると、代替案や他に優先すべき
ものを用意せず、逃れるためだけの反抗や、
反対のための反対ではいけない、ってことですね。
自分の心の中の、人生をかけて優先したい、
と思えることを優先するとき、
人は、幸福感とともに在れるんだと思います。
参考になれば幸いです^ー^
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